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東京国立博物館 画像検索結果 2014.8 現在

東京国立博物館 http://www.tnm.jp/ のサイトより
調査・研究 → 画像検索 → キーワードから検索すると、
観ることができる所蔵品。

キリシタン 40件
切支丹 1件
長崎奉行所 70件
踏絵 26件
マリア 46件
キリスト 32件
聖母子 20件
ロザリオ 171件
メダイ 23件
十字架 29件
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遺跡巡り リスト [<きりしたん遺跡巡り>]

遺跡巡り リスト(56) 2014.8 現在

銀座三越屋上のキリシタン灯籠?を追加しました

書物に記載あり(本)
インターネットで知る(ネ)
現地でみつけた(場)

(ネ)キリシタン灯籠 二七不動院 焼失
(場)東京駅八重洲北口遺跡のキリシタン墓 (中央区)
(場)キリシタン灯籠か? 銀座三越 (中央区)
(本)伝馬町牢屋敷跡 (中央区)
(本)キリシタン灯籠 深光寺 (文京区)
(本)切支丹屋敷跡 (文京区)
(本)切支丹坂 (文京区)
(本)キリシタン灯籠 宗慶寺 (文京区)
(本)キャラの供養碑 伝通院 (文京区)
(本)キリシタン灯籠 東京カテドラル聖マリア大聖堂
(本)松平忠直の供養墓 浄土寺
(本)キリシタン灯籠 竜雲院
(本)有馬直純の供養墓 本覚院
(本)キリシタン地蔵 本覚院
(場)キリシタン灯籠か? 全生庵 (台東区)
(場)キリシタン灯籠か? 笠森稲荷 (台東区)
(本)フェレイラの墓 瑞輪寺
(本)江戸千住口鳥越山刑罰場跡
(本)江戸千住口浅草山刑罰場跡
(本)マリア地蔵 誓教寺
(本)キリシタン灯籠 浄念寺
(場)キリシタン灯籠か? 旧安田庭園 (墨田区)
(本)小塚原刑場跡
(本)泪橋(一名涙橋)
(本)キリシタン灯籠 羅漢寺
(本)芝口の札の辻 (港区)
(本)江戸芝口札之辻刑罰場跡=元和キリシタン遺跡 (港区)
(本)高輪大木戸跡
(本)キリシタン灯籠 梅窓院 (港区)
(本)キリシタン灯籠 高山稲荷神社
(本)元和大殉教記念碑
(本)ゆうれい地蔵 光福寺
(本)キリシタン灯籠 等覚寺
(本)鈴ケ森刑場跡
(本)泪橋(一名涙橋)
(本)キリシタン灯籠 海晏寺
(ネ)キリシタン灯籠か? 海福寺 (目黒区)
(本)キリシタン灯籠 大鳥神社 (目黒区)
(本)キリシタン灯籠 大聖院 (目黒区)
(本)キリシタン灯籠 浄桂寺
(本)シドッチ所持「悲しみの聖母」複製
(本)キリシタン灯籠 聖輪寺
(本)キリシタン灯籠 高源院
(本)キリシタン灯籠 蓮華寺
(本)キリシタン灯籠 妙法寺
(本)キリシタン灯籠 禅定院 (練馬区)
(本)マリア菩薩 長命寺
(本)キリシタン灯籠 延命寺
(本)新井白石の墓 高徳寺
(ネ)遊女朝妻の碑 蓮華寺
(本)正雪地蔵尊 秋葉神社
(本)キリシタン灯籠 太宗寺 (新宿区)
(本)キリシタン灯籠 大聖院
(本)キリシタン灯籠 JR中央線の高架線脇
(本)キリシタン灯籠 月桂寺
(場)キリシタン灯籠 深大寺 (調布市)

参考文献一覧
戸畑忠政(編)『ぶんきょうの史跡めぐり』文京区教育委員会,1983.
北村肇(編)『東京文化財の旅- I II 』毎日新聞社,1999.
『ガイドブック 新宿区の文化財 石造品編 ー新版ー』新宿歴史博物館,2000.
小笠原俊幸(発)『東京 神社・仏閣巡り 街ネタ帳』東京地図出版,2009.
遠藤周作(著)『切支丹時代』小学館ライブラリー,1992.
高木一雄(著)『東京周辺キリシタン遺跡巡り』聖母の騎士社,1997.
松田重雄(著)『切支丹燈籠の信仰』恒文社,1988.

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キリシタン灯籠か?(銀座三越) [@キリシタン灯籠]

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銀座三越9F 銀座テラス
銀座出世地蔵尊となり
年代不詳 それどころか何ひとつ解らない
2014年7月5日撮影

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キリシタン灯籠(梅窓院)の伝説 [@キリシタン灯籠]

以下の引用文は、青山の梅窓院のキリシタン灯籠に『十二時のお化け』という伝説がある、というお話です。見てはいけないものとされていたようで、守るために人目を遠ざけていたのかもしれません。この伝説『十二時のお化け』についてのお話はないので、どんな言い伝えなのか継続して調べてみます。
さんえもん判断で読みやすくするために、所々、漢字をひらがなに、漢数字を数字に直しています。
 また切支丹灯籠には、タブーされているものが各地で採集を見ている。
 東京目黒大聖院や静岡宝台院の切支丹灯籠の伝説については前に述べたが、梅窓院にある灯籠について述べよう。昭和12年(1937)6月26日付東京朝日新聞にこの灯籠に関する記事が出たところ、数日後小野ツルという一婦人から次のような投書があった。
 「私は2、3歳から19歳頃まで青山北町1丁目に住まいました時分、梅窓院境内に観音様のお縁日が月2回ありましたので、母に連れられてよく詣りました。30年前のことです。その時分あの辺りは久保町と云って、町は表側だけが商店街で一歩裏通りに入りますとまばらな屋敷街でした。それに続いて青山墓地があり、4丁目裏から麻布笄町辺りは見渡す限り田圃で、蛙が鳴いていたり、昼間はよく目高を捕りに行きました。そして、ところどころの窪地には金魚を沢山飼っていたことを憶えております。その梅窓院の地に切支丹のお墓があるとの記事を拝見して、私はその時分を懐かしく思い出しました。実はあの墓碑には『十二時のお化け』という伝説があって、その墓を見ると祟りがあるというのです。それで親達からあの前を通る時はお墓を見ないように必ず駆け出して通れと教えられていたのですが、恐ろしいもの見たさに走りながら盗み見をしたことがありました。それから4、5日してころんで足などを痛めましたが『十二時のお化けを見て通ったからだ』とひどく母親から叱られたことを憶えています。」
三田元鍾(著)『切支丹伝承』宝文館出版,1975,pp53-54.
 注)巻末の編集覚書によると初版は昭和16年(1941)8月

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梅窓院のキリシタン灯籠 [@キリシタン灯籠]

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港区南青山2-26-38
美濃郡上藩青山家の菩提寺
2013年8月20日撮影
 青山通りの南側に建つ浄土宗の梅窓院は、青山の地名の由来となった美濃郡上藩青山家の菩提寺である。もともと藩邸の敷地内にあって、12代にわたる藩主とその一族が眠っている。ここにはキリシタン灯籠を転用した青山備中守幸敬の墓がある。
北村肇(編)『東京文化財の旅- II 』毎日新聞社,1999,p11.
 東京青山4丁目梅窓院墓地にある灯籠には「明治二己巳年十一月七九日寿覚院故従五位下清誉大雄洪愍大居士」とあるが、後から刻したものであり、
(中略)
 青山梅窓院は寛永年間(1624-1644)に梅窓院殿の開基になったが、院殿自身は芝増上寺に葬られ、青山子爵家の菩提寺であった。またこの切支丹灯籠は、古い灯籠石を用いて墓碑にしたといわれている。
三田元鍾(著)『切支丹伝承』宝文館出版,1975,pp52-54.
 注)巻末の編集覚書によると初版は昭和16年(1941)8月

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キリシタン灯籠(梅窓院) [@キリシタン灯籠]

竿の見方
十字架をかたどり、「三位一体」を象徴した供養塔であり、礼拝物である。


竿の全体 ギリシャクルス型、T字クルス型
竿の上部 「天の父」文様(記号)
竿の下部 「子」イエス像
竿の左右 「聖霊」漢詩(詩偈)

竿は直接土中に立て十字架を象徴する。
次第に型は墓標化、文様は消滅、イエス像は仏像化、漢詩は消滅する。
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竿丈93センチ
最初は土中に立てていた
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「天の父に」
裏から眺めると
PTI=Patri(ラテン語)
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足左右開き
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岩松无心 風来入
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錦上鋪花 又一重
岩松无心 風来吟
錦上鋪花 又一重

「信徒よ、岩のような強い信仰心を持ち、心を無にして、信仰すれば、イエスの恩寵をうけて、新生の喜びにひたるであろう。」
「貴方がキリストのみ弟子として、加わることは光栄である。一人でも多く、信徒になろう。天主のみ前に清らかな花をしきつめよう。ユリのように美しく、敬愛するわれわれの兄弟姉妹の一人の殉教者が、また主のみもとに参りました。」
松田重雄(著)『切支丹燈籠の信仰』恒文社,1988.を参考にしました。もちろん諸説あり。

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東京駅八重洲北口遺跡のキリシタン墓 [キリシタン遺物の展示]

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日比谷公園
2013年6月25日撮影

日比谷公園内にある千代田区立日比谷図書文化館の常設展示室の「日比谷入江と中世千代田」のコーナーに、とても小さいスペースですが、長方形の箱形の棺に納められた人骨の写真とキリシタン墓から出土したメダイとロザリオの玉が展示されています。逆に言うと、メダイとロザリオを骨といっしょに埋葬していたから、この人は生前キリスト教を信仰していたのだ!ですね。
一般的に教科書が教える年号で言えば、キリスト教の伝来は1549年。家康が秀吉の命令で江戸に入ったのは1590年。江戸時代のスタートは1603年。全国にキリスト教の禁止令が出たのは1613年。
禁止される前に信仰し、亡くなって埋葬され、禁教後もキリシタンの墓だと知られなかったのか、それとも、立ち入れない場所だったのか、ともかく、暴かれることなく現代まで残っていた、江戸にキリシタンが住んでいた貴重な証拠です。
 この遺跡では、1580年代から1600年代頃、戦国時代末から江戸時代初頭に相当する時期の生活面が発見された。このあたりは、日比谷入江の東側にあたり、江戸前島(えどまえしま)の東岸にのっている。
 この東京駅八重洲北口遺跡での重要な発見の一つにキリシタン墓があげられる。
 キリシタン墓は、1580年代~1600年代頃の墓域の内側に形成されたものであり、人骨の鑑定結果から埋葬人骨はアジア人的特徴を持っていることがわかった。すなわち、ここにキリスト教に帰依したアジア人が埋葬されていたことがわかったのである。墓というのは社会を映し出す鏡のようなもので、社会構造や宗教観が如実にその墓のスタイルに現れる。八重洲のキリシタン墓の一つは、当時の日本ではめずらしい箱型の棺に体を伸ばした伸展葬(しんてんそう)で葬られ、もう一つは当時ではふつうにみられる長方形の土坑墓だったが中からメダイがみつかるなど、キリスト教的な特徴を備えていた。
 キリシタン墓については、国内のほかの遺跡の例は、キリシタン大名で有名な高山右近の摂津高槻城、同じくキリシタン大名の大友宗麟の府内城、あるいは平戸など長崎県内でみつかっている。織田信長や豊臣秀吉が権力をもった時代は、スペインやポルトガルから商人やキリスト教の司祭がやってきていたが、徳川家光の時代になると禁令となっている。
『日比谷図書文化館常設展示図録』千代田区教育委員会,2012,p33.

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東京駅八重洲北口
2013年8月31日撮影

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切支丹屋敷跡碑文 [@殉教地]

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文京区小日向1-24-8
2006年1月28日撮影

以前訪れた際(2006年)にあった、石碑の文のコピーを掲載します。当時も今も、この石碑の正面を近づいて見て、かろうじて文字が彫られているのがわかるくらいなので、どなたの好意で読むことができるか存じませぬが、感謝致します、とともに勝手を御容赦下さい。
さんえもん判断で読みやすくするために、所々、漢字をひらがなに、漢数字を数字に直しています。
 切支丹屋敷跡碑文(注、正徳4年は1714年。但し正徳5年説もある)

此の所は切支丹屋敷の跡でこの古い石は八兵衛の夜泣石といってここで殉教した人々を記念するものであります。この牢屋は1646年出来たもので1792年までこの地では多くのカトリック信者が殉教者となって死んでおります。
中でも1668年バレルモに生れたヂォワニパプチスタシドッチ神父は大変に熱心な学者でローマからデトルノン枢機卿と一緒にマニラへ行って居られましたが日本の迫害された切支丹の救霊の為に秘密で1708年10月10日九州の屋久島へ着き間もなく捉まりました。長崎から江戸へ連れて行かれ此の屋敷に閉じこめられ、新井白石の訊問も受けましたが彼はシドッチ神父の答えを西洋紀聞の中に書きました。神父は二人の番人夫婦に洗礼を授けてから眞との神様の教えを現わす為めに殉教者として正徳4年10月21日「1715年」なくなりました。大勢の切支丹日本人外国人の雄々しい死を記念するようにこの碑を立てました。

昭和31年(1956)3月17日 ウェルウイルゲン神父誌

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八兵衛の夜泣石 [@殉教地]

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文京区小日向1-24-8
切支丹屋敷跡にて
2013年8月12日撮影
 東京小石川小日向の高台に、むかしキリシタン屋敷といわれていた宗門奉行井上筑後守の下屋敷があった。禁制下、南蛮からひそかに渡ってくる宣教師を捕らえて軟禁しておく拘置所のようなものであったが、この牢獄屋敷の番卒に、奥州岩代生まれの八兵衛という19歳の若者がいた。
 八兵衛は幽閉されている伴天連に接しているうちにキリシタンに帰依し、屋敷内のことなどを伝えていたというかどで、逆さ埋めにされ、その上に墓石として大きな伊豆石が置かれた。
 奇妙なことに、この石のまわりには草も苔も生えず、石の上に小鳥もとまらなかったが、さらにふしぎなことは、石にむかって、
「八兵衛さん、悲しかろう」
 と声を掛けると、石が返事をし、夜な夜なすすり泣く声が聞こえたという。

 (注)わが国には哀しみや憤怒のあまり女性が石と化したという伝説が比較的多くある。石化するばかりか、夜になるとその石がすすり泣いたり、私語したりする話も多い。また、この「八兵衛の夜泣石」のように墓石や供養石など祀られた石が私語したり泣いたりする伝説も多い。キリシタンの伝説としては、88頁で紹介した島原の魚洗郷(いわれごう)に伝わる「石になった妻」とこの話が知られている。
谷真介(著)『キリシタン伝説百話』新潮選書,1987,pp159-160.

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切支丹屋敷跡 [@殉教地]

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文京区小日向1-24-8
2013年8月12日撮影
東京都指定旧跡 切支丹屋敷跡

所在地 文京区小日向1-24付近
標識 大正7年4月
指定 昭和30年3月28日

 キリシタン屋敷は正保3年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。
 最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保9年(1724)焼失し、以降再建されず、寛政4年(1792)に屋敷は廃止されました。

平成24年3月建設 東京都教育委員会
 深光寺から先は小日向台地への上り坂となる。丸の内線のガード下をくぐらずに右折すると急な蛙(かえる)坂。閑静な住宅街を200メートルほどすすむとかつて切支丹屋敷が置かれた一帯で、今は住宅地の道に石碑が立っているだけ。その脇の丸の内線のガード下までの短い距離が切支丹坂。この坂は俗に幽霊坂とも呼ばれた。切支丹屋敷には牢や番所がおかれ、鎖国下で禁教のキリスト教を布教する宣教師や信者を収容した所であった。
 宝永5年(1708)イタリアの宣教師ヨハン・シドッチが屋久島に上陸して捕えられ、切支丹屋敷に入れられた。翌年、6代将軍家宣(いえのぶ)の幕臣の朱子学者新井白石(はくせき)が、切支丹屋敷でシドッチを訊問した。白石は彼の見識を高く評価し、「本国送還」を上申したが聞き入れられず、シドッチは6年後に牢死した。のち、白石は訊問時の記録をもとに『西洋紀聞』『采覧異言(さいらんいげん)』を著わし、外国事情を世に知らせた。
北村肇(編)『東京文化財の旅- I 』毎日新聞社,1999,p50.

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切支丹屋敷
 島原の乱後5年、イタリアの宣教師ペトロ・マルクエズ、ジョセフ・カウロ等10人が筑前の国に漂着した。すぐ江戸送りとなり、伝馬町の牢に入れられた。後、正保3年(1646)に、宗門改役の井上政重の下屋敷内に牢や番所などを建て収容した。これが切支丹屋敷の起こりである。廃止は146年後の寛政4年(1792)の宗門改役の廃止による。鎖国禁教のもと宣教師(バテレン)や信者を収容した。

切支丹屋敷の規模
 春日通りの茗台中学校と交番の間の石段(庚申坂)を下った道路に橋があった(獄門橋とも)。地下鉄のガードをくぐった坂(切支丹坂)上に表門があり、その左右一帯が切支丹屋敷であった。牢は外周を石垣で囲み、更に内部を土手で囲んだ。約10mに4mほどの牢獄、倉庫や番所などのある地域は、高さ3mほどの石壁で厳重にめぐらされていた。『小日向志』(文化年間・間宮士信)によると、2,997坪余あるが、もとは7,700余坪(約25,410平方m)もあった。
戸畑忠政(編)『ぶんきょうの史跡めぐり』文京区教育委員会,1983,pp122-123.

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この石段(庚申坂)を下った先に

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切支丹坂 [@殉教地]

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庚申坂(切支丹坂)
春日2丁目と小日向4丁目の間
2013年8月12日撮影
 区立茗台中学校と東京都社会福祉保険医療研修センターの間を、西に下る急な石段坂である。この坂はまた、切支丹坂とも呼ばれている。
 『東都小石川絵図』安政4年(1857)尾張屋清七板を見ると、この坂道あたりに、「キリシタンサカ」の記入がある。
 『新選東京名所図会』では、「小日向第六天町の北、小石川同心町との界を東より西へ下る坂あり、切支丹坂といふ、今此坂を切支丹坂と云ふは誤れり。本名庚申坂、昔坂下に庚申の碑あり、又庚申坂の西、小溝に架したる橋を渡りて、両側藪の間を茗荷町男爵津軽邸前へ上がる坂あり、無名坂の如く称すれど、是れ真の切支丹坂なり、坂の上に往時切支丹牢屋敷ありたり、故に此名に呼ぶなり」としている。
戸畑忠政(編)『ぶんきょうの坂道』文京区教育委員会,1980,p125.

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切支丹坂(幽霊坂)
小日向1丁目16と24の間
電柱に「切支丹坂」と
2013年8月12日撮影
 「今の第六天町にある切支丹坂は本名庚申坂と呼びて、まことの切支丹坂は其向にあるわづかばかりの坂なり、坂の上は牢屋敷(切支丹屋敷)にて」(『新選東京名所図会』)
 右は(↑)、明治末の記事である。庚申坂(切支丹坂)の項でも述べた通り、茗台中学校側の坂も切支丹坂と呼ばれている。地下鉄丸ノ内線のガードをくぐって、小日向の台地に上るこの坂も、切支丹坂と呼ばれており、また、里俗(りぞく)に幽霊坂といわれた。
 寛永20年(1643)というと、鎖国令から4年後である。この年、バテレン(宣教師)ジョセフ・カウロ一行10人が、九州に来て捕えられ江戸に送られた。宗門改役井上筑後守政重の下屋敷(この坂の上)に牢がつくられた。廃止は寛政4年(1792)である。今は静かな住宅地となっている。
戸畑忠政(編)『ぶんきょうの坂道』文京区教育委員会,1980,p126.

タグ:切支丹坂
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